教えのやさしい解説

大白法 478号
 
人法一箇(にんぽういっか)
 人法一箇とは、人法体一(たいいち)・人法一体ともいい、法華経本門寿量品の文底(もんてい)に秘沈される法即人(ほうそくにん)の本尊と人即法の本尊が、一体不二(いったいふに)の当体(とうたい)であることをいいます。
 法即人の本尊とは久遠元初(くおんがんじょ)自受用報身(じじゅゆうほうしん)如来である日蓮大聖人をいい、人即法の本尊とは文底独一・本門の事(じ)の一念三千の南無妙法蓮華経である本門戒壇の大御本尊をいいます。
 日蓮大聖人は『諸法実相抄』に、
 「釈迦・多宝の二仏(にぶつ)と云ふも用(ゆう)の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏(ほんぶつ)にては御座(おわ)し候へ(中略)凡夫は体の三身にして本仏ぞかし」(御書 六六五n)
と説かれています。
 久遠本果五百塵点劫(じんでんごう)成道の釈尊と、本因下種の妙法蓮華経を対比すれば、釈尊は右御書に「用の仏」とあるように、化他のために相好(そうこう)を有する色相荘厳(しきそうしょうごん)の仏、垂迹仏(すいしゃくぶつ)であるのに対し、妙法蓮華経こそ久遠元初・本地自行の本仏であり、凡夫無作(むさ)の当体であることが拝されます。
 すなわち、熟脱(じゅくだつ)の仏法における仏は、妙法を師として成道した垂迹化他の仏である故に、人(仏)は劣り、法は勝れますが、下種(げしゅ)の仏法における本仏は、大聖人が『総勘文抄(そうかんもんしょう)』に、
 「釈迦如来五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫にて御座せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき」(御書一四一九n)
と仰せられるとおり、久遠元初の一念に境智冥合(きょうちみょうごう)し、即座に開悟された、本地自行の仏であり、人法体一の真仏なのです。
 総本山第二十六世日寛(にちかん)上人は、右の「釈迦如来」とは自受用報身如来であり、「五百塵点劫の当初」とは久遠元初、「我が身は地水火風空」とは御本仏の色法(しきほう)で本地の境妙(きょうみょう)、「知しめして」とは本仏の心法で本地の智妙とされ、この境妙と智妙が冥合しで南無妙法蓮華経と唱える故に「即座に開悟」し、久遠元初の自受用身と顕れる、と御教示されています。
 本門寿量品の文底に秘沈される久遠元初の人・法の本尊は、その名は異(こと)なっていても、自受用身即一念三千・一念三千即自受用身の人法体一であり、日蓮は即南無妙法蓮華経であるとの意です。
 大聖人は久遠元初自受用身の再誕(さいたん)として末法に出現され、『経王殿御返事』に、
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(御書 六八五n)
また『御義口伝』に、
 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書 一七七三n)
とあるように、御自身の内証(ないしょう)を「南無妙法蓮華経日蓮」と認(したた)めて、人法一箇の大漫荼羅本尊を顕されました。
 私たちが即身成仏の境界を得るためには、末法下種の本門戒壇の大御本尊の当体が、そのまま御本仏日蓮大聖人であることを確信し、自行化他の信行に邁進(まいしん)することが肝要です。